広島大学医学部歯学部ラグビー部
霞ラガーズは,まだ40歳の若かりし川崎尚生化学第一講座教授と,その生化学の試験を白紙で提出し悠然と退場した当時広島大本部のラグビー部に所属していた片山惠之(昭和51年卒,現OB会長)の運命的な出会いにより受精した。当時は同好会として誕生,48年7月にはクラブに昇格,その後部への昇格,県ラグビー協会Dリーグへ加盟を果たす。この年初めて西医体にも参加するも,最初は冗談だったという参加姿勢のためか2回戦敗退に終わる。この頃クラブと言えば,その愛称酔狂クラブの名にふさわしく,コンパ要員としての多くのメンバーをかかえるも試合の頭数をそろえるのに四苦八苦。何とか試合直前に雀荘から素人をスカウトしてくるといった逸話も残っている。しかしOB諸氏のラグビーを愛する心,そして医学をたまにはやるといった姿勢の功あってか,49年,西医体において初優勝,翌年準優勝と,突然第一期黄金時代を迎える。しかし,実力はあるにもかかわらず,人格形成期にミルクではなくビールを摂取し過ぎたせいか,部はその後西医体においては数年ふるわぬ状態が続く。


危機感の中で臨んだ昭和54年のシーズンは,元早稲田大学監督,全日本代表コーチを務められた栗本利見氏をコーチに迎え,早稲田ばりの華麗なオープンプレーを目指した。たった4日しか夏休みをとられぬという猛練習ぶりでのぞんだ西医体は,ここまでの西医体でも因縁の深い熊本大学を準決勝で破り,決勝でも大阪医大に43ー8と快勝,5年ぶりの優勝を果たした。この頃の戦力の充実ぶりを示す逸話として,四方裕夫(昭和56年卒)稲野秀幸(同)の両名が,強豪三菱重工水島ラグビー部から就職の誘いを受けたという話も残っている。(しかも聞いた話では,四方は相当心揺れ動いたらしい。)この時代は霞ラガーをして第二期黄金時代と称されている。このときのメンバーの1人が現顧問の茶山一彰教授である。  10歳の誕生日を迎えた昭和57年前後,クラブは西医体での成績もさることながら,部員の人数でも再び厳しい時期を迎えた。しかし,OB諸氏はそんな中でも力一杯楕円球を追いグラウンドを駆けた。地道な活動はやがてクラブを思春期へと導いていく。

思春期へ